表現というものが、よく分からない。
分からないというのは
得体が知れない、といったことである。
表現≒芸能
とすることで、ある程度わかる。
芸能ならば、割とはっきりしているので
説明もしやすい。
私が分からないと思っているのは
表現≒芸能
のうち
表現=芸能
でない部分、すなわち
表現≠芸能
の部分のことだ。
芸能でない表現が存在することは理解している。
息をしていても、
それを表現と呼ぶことはできる。
とはいえ
息をしていることを普段は
表現としてとらえることはない。
息を吸って吐く、生きていることそのものを
表現として言い張ってもいいのだけれど
息を吸って吐く、生きていることそのものを
表現であると自覚することはそんなにない。
表現っていったい何だろう。
表現の自由という言葉がある。
憲法にも保障されている。
日本国憲法第21条だ。
斜に構えてしまうのだ。
殺人だって言おうと思えば表現だ。
じゃあ
殺人が表現ならば自由なのか、と。
表現の自由
というのは制限つきなのだ。
まずは
表現の自由
というのが限りなくあるものとする。
その上で
殺人というのは決して許されるべきではないものなので
殺人を犯したら、
その者は制限されるようになりますよ、と。
では
表現としての殺人は
絶対にできないのか。
できないどころか大人気である。
殺人ドラマがそれだ。
サスペンス劇場である。
多くの耳目を集める。すなわち視聴率がよい。
実際に事実として殺人を犯しているわけではない。
殺人を犯す、というていをなしているだけだ。
なんちゃって殺人だ。
実際に殺人を犯していないわけだから
罪としては不問である。
創作世界の中では不問としないように奮闘するであろうが
現実世界の中では不問である。
しかるべき役所に許可証を申請するとも聞かないので
創作世界の中での殺人に関して
現実世界の中の機関が動くことはないのだ。
なんちゃって殺人ならいいのだ。
創作世界が現実世界に侵食しなければいいのだ。
二次元と三次元の間にある壁、というやつである。
二次元の中なら表現は無限、自由なのだ。おそらく。
三次元だと表現の無限性、自由は揺らぐ。
表現ってなんだろう。
意味と価値も、ほぼイコールだと思っている。
意味≒価値
ということだ。
あなたのしている行動は意味がある。
あなたのしている行動は価値がある。
あなたのしている行動は意味がない。
あなたのしている行動は価値がない。
同じと捉えて差し支えなさそうなのだ。
とはいえ、なんとなく違いも感じる。
あなたのしている行動は、意味がないけど、価値がある。
これは成り立つと感じる。
お笑いのナンセンスギャグなど該当しそうだ。
お笑いなら、これも大いなる表現だ。
しかもどうやらこれは
意味がないけど、が創作世界側で
価値がある。が現実世界側とも感じ取れる。
リンクしてきた。
表現とは何なのだろう。
そうそう。
何を表現でそんなに悩んでいるのか、と。
それはつまり
ひとりごと
は表現に含まれるのかどうか。
他者に届かない思考は
果たして表現なのか。
脳内の考察
を表現と呼んでもいいのか。
そこに
日記
を含めてもよい。
おそらく
表現
と呼んではいけないのであろう。
どうしても言いたいのならば
表現の萌芽。
自問自答
と考えれば表現と言えなくもない。
自らを他者とするので。
主観と客観の区分の誕生。
ただし
自らを客観視すれば
ひとりごとも表現と呼ぶべきだ
というのは危険な気がする。
どこまで行っても
表現の萌芽。
表現そのものではない。
表現
というのは
他者に見せたもの
というコアがあり
そこに至る過程が
グラデーションとして存在するということ。
表現において
他者に見せたもの
他者に見せていないもの
を意識することはとても大切なことだ。
他者に見せていないもの
がにじみ出てしまうことが
幽玄の本質とする。
表現とはそもそも
分からないことを含んでいるものなのだ。
分かるものは分かる。
分からないものは分からない。
分かりそうなものは分かりそうなもの。
そのはっきりとは分からないながらも
分かりそうなものに対して
挑み続けることが
魅力なのではないか。
幽玄という魅力。
幽玄とは
物事の趣が奥深くはかりしれないこと。
日本固有の概念であり
日本文化の基層となる理念。
その幽玄を支えるのが
群助動詞や補助用言などの
文末の機能語。
無限に存在するのは世界でも日本語だけ。
日本でしかできないことがあります。
それをどう伝えるために表現するか。
どうすればいいか、今なお分からない。
* * *
そうする。
より
そうするのです。
の方がエモいというところまでは分かった。